世界を変えるU33

ファッションで世界を変える

MixiCheck

気仙沼から、
世界に誇れるニット商品を生み育てる。

御手洗 瑞子(みたらい たまこ)さん
株式会社気仙沼ニッティング 代表取締役

御手洗 瑞子

Interview Q1.どんな問題に取り組んでいますか?

「東北の気仙沼を、最高の商品が生まれる場所として世界に広めたい。」

-株式会社気仙沼ニッティングとは、どんな会社でしょうか?

宮城県の沿岸部に位置する気仙沼を拠点として、お客さまに手編みの商品をお届けする会社です。

東日本大震災後の東北で、一時的な支援が去ったあとも、ずっと地元に根づいて、続いていく会社をつくりたいと思ってはじめました。
はたらく人が「誇り」を持つことができ、きちんと収益を上げることで自立して続いていくことができる、そういう会社にしたいと思っています。

商品であるニットやカーディガンは、すべて気仙沼に住む編み手の方々が一着ずつ手編みをしています。

ずっと続いていく会社になるためには、お客さまが「被災地の人がかわいそうだから、買おう」と思うのではなく、「これ素敵!ほしい!」と思って買ってもらえるものをつくる必要があります。
なので、カーディガンもセーターも、私たちが「これはいものです」と自信をもってお届けできるものをつくっています。
そのために、毛糸を一から開発したり、デザインを大切にしたりしています。

第1弾の商品となったカーディガンはオーダーメイドなのですが、ただ商品をお渡しするだけでなく、お客さまが、自分のカーディガンをオーダーし、編んでもらうという経験そのものを楽しめるようにしたいと考えています。
たとえば、編み手さんからご挨拶のお手紙をお送りしたり、途中で「いまこれくらい編めました」といった経過報告もします。

「もうすぐ完成です!」とご連絡すると、「うれしいけど、待っている時間が終わってしまうのは少しさびしい」と言われる方もいらっしゃいました。

お客さまとは「注文した人」と「編む人」という役割だけの関係ではなく、人と人とのお付き合いができるようなお店になりたいと思っています。

—続いていく会社になるには、自立できることが必要なのですね。

震災が起き、被災地には、さまざまな支援がありました。
閉塞感のあった日本の中で、東北から新しい何かが生まれてくるんじゃないかという期待感もあったと思います。
でも、誰かがはじめなければ、何も生まれないですよね。
それに、この地域は震災前から過疎化が進み、経済的にも弱っていました。
その上で、震災が起きたのです。

だから、被災地であることが忘れられても、しっかりと暮らしの糧を得られる会社をつくらなければと思いました。

今、気仙沼ニッティングを「世界に出ていくブランドにしよう」と言っているんです。
元々、遠洋漁業を中心とした港町ですから、世界を目指してもひるむこともなくて、むしろ「いいぞ、いいぞ!」と盛り上がるくらい。

東北の気仙沼という地名が、素敵で高品質なニット商品を生み育てる場所として、世界に知られていくようになったらいいなと思っています。

気仙沼ニッティングの商品は、すべて気仙沼に住む編み手の方々が一着ずつ手編みをしています。

Interview Q2.今の取り組みをやろうと思ったきっかけは?

「今、自分の力を東北に注がなければ、後悔する。」

—震災が発生した時は、海外で働かれていたそうですね。

ブータンという国にいました。
ヒマラヤの山の中にあり、「国民の幸せを一番に考えた国づくりをする」という指針を持っている国です。
そのブータンという国で、産業育成のために政府をサポートする首相フェローというポジションの第1号として、現地で1年間、観光産業の育成などを行っていました。

そんな中、東日本大震災が起こりました。
社会人1年目の頃に東北で働いていたこともあり、知っている地域がどんどん津波に飲まれていく映像をみて、ショックを受けました。

「いまは、日本のためにやることがあるのではないか」と思い、ブータンでの任期が終わったら、日本に帰国し、東北で働こうと決心しました。

ブータンからの帰国後、東北の復興プロジェクトに関わり、自治体の方々と一緒に産業の復興計画の基礎をつくる仕事をしていました。
元々は、経営コンサルタントとして経営者のサポートをする仕事をしていましたし、ブータン時代も首相フェローというポジションで働いていました。
なので、それまでは、いつも大きな組織のリーダーをサポートする仕事をしていたんです。

日本に帰ったとき、被災地はまだまだ混乱している時期でしたので、自治体のリーダーをサポートしながら、事業計画を定めたりすることが、そのとき、私が一番役立てることだと思ったんです。

ほどなく、あとは自治体の皆さんが進めていくという段階になり、私の役割は一区切りついたのですが、東北にいると復興自体はぜんぜん終わっていないということを日々実感していました。
瓦礫の処理や道路などの公共事業は進んでいるところもありましたが、地元の経済という面ではまだまだ時間がかかりそうで。

中長期的に考えると、復興のためには、被災地の産業が元気になって、支援が去った後も、経済的に自立できるようになることが課題だと思いました。
経済的な復興のためには、行政からでは、どうしても補助金をつけるなど間接的な支援になってしまいます。
だったら、被災地で、自分で会社を起こそうと思ったのです。
とにかく種をまかなければ、芽は出ませんよね。

小さくても地元で頑張ってビジネスとして成り立つ会社が一つでも生まれれば、それがモデルケースとなって、広がる可能性も出てきます。

—気仙沼ニッティングの社長になったきっかけは?

そんなことを考えていたタイミングで、それまでも交流のあった糸井重里氏から、「気仙沼で手編みものの会社をやりたいのだけど、社長をやらない?」と声をかけてもらいました。

「やりたい!」と思ったけれど、正直、不安もありました。
経営はうまくできるだろうか、お客さまがいらっしゃるだろうか。
でも、それは考えても答えがでないことなんです。
やってみなければ、わからない。

それに、「勝算があるからやる」というものでもないと思いました。
課題があるから、やるってことだよなぁと。

東北の被災地で手編みの会社。
チャレンジしなきゃ、わからないことだらけでも、今、自分の力を東北に注がなければ、この先後悔するって思ったんです。

ブータンでは、1年間、観光産業の育成などを行っていました。

Interview Q3.どんな高校時代でしたか?

「日本にいても、世界は身近に感じられる。」

—どんな子ども時代を過ごしていましたか?

5年生の頃に、1ヶ月間、子どもの国際キャンプに参加しました。
場所は、ポルトガル。
そのキャンプには12ヶ国の同い年の子どもたちが集まっていて、国も文化も違っても、友だちになれるんだと思いました。

15歳の時にも同じような国際キャンプに参加したのですが、成長していたせいか、印象が違いました。
このときのキャンプでは、キャンプのルールも、参加者たちが議論をして決めていきます。
それが、とても難しくて。たとえば、「朝のミーティングにはみんなちゃんと参加しよう」と誰かが言っても、他の人が「それは各自の自由ではないか。うちの国の文化では、もっと自由が尊重される」と言ったり。
なにが間違っていることで、なにが文化の違いなのか、わからない。
自分が正しいと感じても、他の人にはそう感じないこともあるということを知りました。

翌年の高校1年生の時に、アメリカで同時多発テロ、いわゆる「9.11」が起きました。
ニューヨークの世界貿易センタービルに、ハイジャックされた旅客機が衝突した映像は、ショッキングでしたが、それ以上に、アラブ諸国の子どもたちが喜んで飛び跳ねている映像にショックを受けました。

なぜ、人の考えはこんなにも違っていて、理解し合えないのか、なぜ、違う世界に住む人への想像力が働かないのか、ということをよく考えていましたね。

高校2年生の時に、フィリピンの国際会議に参加したのですが、私はキレイなホテルに泊まっているのに、すぐ近くにはスラムがあるという現実を目の当たりにして、世界の経済格差というものを考えるようになりました。

思想や政治とは違い、経済の場合は自分も加担しています。
買い物をしても、実は途上国で子どもたちが強制的に働かされてつくられた商品かもしれない。
自分の行動が、世界のどこかで人を不幸にしているかもしれないことがとても悲しかったですね。

—子どもの頃から世界に目を向けていました。留学は考えなかったのですか?

あんまり真剣に考えていなかったかもしれません。

子どもの頃から国際キャンプに参加したりしていたので、なんとなく、軸足を日本に置いていても、世界を身近に感じることはできると思っていました。

また、経済や世の中のことをまずしっかり学び、考えられるようになりたいと思っていて、そうした基礎的な教養はまず母国語でしっかり学んだ方がいいかなと思っていました。
その方が深く考えられる気がして。
もちろん別の考え方もあると思いますし、留学をしてもそれができる人も、いるのだと思います。

私の場合は、日本の大学に通いながら、国際NGOで活動したり、世界中を旅したりしていました。
ただ、学生の頃にできることは決して大きくはありません。
課題を見つけられても、それをどう解決していけばいいか、実行まではうつせない。
世の中を批判しているだけでは、変わらないですからね。
それに「どうして世の中がこうなっているのか」がわかっていないと、それを変えることもできないと思いました。
それで、もっと自分の力をつけたい、世の中がどうやってまわっているのかも深く理解したい、と思い、ビジネスの世界に飛び込むことにしました。

御手洗さんの高校時代

高校時代は剣道部に所属して、かなり一生懸命がんばっていました。

Interview Q4.高校生のみんなにアドバイス!

「何になりたいかより、どう生きたいか。」

—人生の先輩から高校生へメッセージをお願いします。

私は高校の頃、特になりたいものがありませんでした。

小学生の頃に、母から「何になりたいかよりも、どう生きたいか」が大切だと言われたんです。
その時に、無理になりたいものを探さなくていいんだと、すごく気持ちが楽になりました。
だから、実は何になりたいかを考えたことがないんです。

それよりも、自分はどんなものが好きなのか、何をしたいのか、そしてどう生きたいかを考えて生きてきました。

自分が大切にしたいことが見つかれば、どこの大学に進もうと、どんな進路を選ぼうと、きっといい道が開けていくと思います。

ただ、受験勉強で、これ以上無理!というほど頑張れた経験は、自分にとって、自信にもなりますし、その後の人生の支えにもなります。

いま精一杯頑張るということは大切だと思いますので、どうか悔いのないよう精一杯頑張ってください。

御手洗さん

大切にしたいことが見つかれば、どんな進路を選んでも、きっといい道が開けていくと思います。


御手洗 瑞子(みたらい たまこ)さん
株式会社気仙沼ニッティング 代表取締役

・1985年東京生まれ。28歳(2014年3月現在)。
・東京大学経済学部卒。経営コンサルティング会社を経て、ブータンで初代首相フェロー。
・2012年に気仙沼ニッティングの設立に参画。2013年から代表取締役に。
・宮城県気仙沼市から高品質の手編みセーターやカーディガンを世界へと届けている。